昭和57年4月12日 朝のご理解 入力者松本正宏
御理解第六十八節 「神参りをするに、雨が降るから風が吹くからえらいと思うてはならぬ。その辛抱こそ、身に徳を受ける修行じゃ。いかにありがたそうに心経やお祓いをあげても、心に真がなければ神にうそを言うも同然じゃ。柏手も、無理に大きな音をさせるにはおよばぬ。小さい音でも神には聞こえる。拝むにも、大声をしたり、節をつけたりせんでも、人にものを言うとおりに拝め。」
神に嘘も言うも同然じゃという言葉が出て参りますけれども、奏上させて頂く言葉の中にあっても祈念詞なら祈念詞を奏上させて頂きますでも、あの内容を本当に自分の信心の内容として、心とその精進、ただ、唱え言葉だけで終わったのではならない。もし、唱え言葉で終わるとそれはもう神に嘘を言っておるのも同然という事になるのじゃないでしょうかね。雨が降るから風が吹くから偉いと思うてはならない。これはお互いの信心実験から生まれてくるものですけれども、本当に雨が降る風が降る。何かお参りが出来ないような難しい都合があってもこうと決めた事を実験する事になりますとね、もうその時でなからなければ頂けない喜びがあるものです。もう本当に、もう雨風で自転車にも乗れない。もう歩いても下の方はじっくりになってお参りをさせて頂きまして、下には紙をひかなければお広前には座れないような、時ほど確かにあり難いものを頂きますよね。どうでしょうかね。それこそ、「雨の降る日はおじゃるなというのに、濡れておじゃればなお可愛い」と言ったような、神様の情がこちらに移ってくるのでしょうね。そこからです、いうならば雨が降るから風が吹くからとかではない。その雨やら風やらが一層、あり難いものとして喜んで受けられるという事になるのです。ただ、雨も風も大切にしなきゃならんという事になりますが、いつも合楽で申しますように合楽の、合楽理念に基づいての表現はもう私は必ず、と思うのですけれども、お徳を受ける手立て、いや、教祖金光大神の御教えの全てが氏子信心しておかげを受けよと仰るそのおかげもお徳を受けてくれよというその願いに答えてのご理解のように思います。
ですからその、雨風を辛抱するというのではなくて、そのむしろ雨風をあり難いと心得る信心。ね。そういう信心を合楽では説かれてあるのです。してみると人生の雨風であるところの問題とか難儀というような事が色々ありますけれども、そういう事をありがたく受け抜いた後の喜びというものはこれは、神様の喜びなのです。ですから、神様の喜びがこちらに帰ってくる。いうなら神様との交流の手立てなのです。
神様のいうなら、段々思いいわゆる合楽でいわれる一切が神愛。となるほど一切が神愛だなあと実感が出切るという事なんです。それで、難しい事はない簡単です明瞭ですと、おかげが確かですと言う風に言われるように、例えば私共が、雨やら風やらをありがたく頂けれる信心から、何が生まれてくるかと言うと、私共の周辺には起きてくるその問題がその問題でなくなってくるということ。ところが実際は問題があるのだけれどもその問題が問題にせずに神愛として受けれる。おかげとして受けられる。そこには問題はないという事になるでしょう。だからこの事一つに本気で取り組んで参りますなら、ね、これをいよいよ自分の物にするなら、ね、信心で一番言う辛抱力もつきますし、同時になら、和賀心とは、こんな心を言うのだろうかというその和賀心も段々生まれてきます。普通でいうならとてもいけそうにも、登れそうにもないところにでも行けたり、登ったり、それをしていくことが出来ます。まずは、いうなら私共周辺に問題はない。あるものは神愛と分からせて頂く信心。これ一つに取り組ませて頂けれる手立てが日々のご理解だと思うのです。そこからは必ず御神徳の世界が開けてくる。
私は昨日、一昨日どうも昼頃からどうも寒気がするなあと風引いたかなあと思うておりましたら、四時半の御祈念を終わって下がらせて頂きました頃からいよいよ寒気が来る
なんぼ布団を着ても、部屋を温めておっても寒気がする。それで私が忘れておったけれども、こういうような寒気の時には必ず足の座り凧が化膿しようとする時なんですよね。それを家内が、今度のはそれじゃないですかというて、やっぱりもう足中が紫になって、化膿する状態の前。それから、だったらしいのですけれども、とにかく、一晩中、まあ修行させて頂きましたが、本当に私は思いましたが、頭がどうかぼうけてしまいますね。本当に悪い時。私が何回もあの手洗いを立ちますから電気を消して休みますから、手探りでも狭い所ですからね、分かるのですけれども、何回目かの夜中の、まあ大変体のきつい時でしたが、何回まわってもどこへ行っても自分の部屋が分からんのです。あの狭いところで。だからこうジッとこれは狐につつまれたというのはこんなこっちゃなかろうかとじっとこう、狐につつまれたっじゃなかろうかと思うて、座りこんでじっとみよったら、向こうの方へかすかな光が見えるのです。だからかすかな灯りをまあたよって、大変遠いところ、たったあの狭いところでですよ、そんな感じなのです。それでその、かすかに見える光ところまで行ったらこう開けたら襖です。なんと家内の部屋です。これはもう俺はどげんしたっちゃ自分の部屋に行かれんがというてから、家内が起きてくれて電気をつけて、まあそんな事がございました。頭がいわゆる年をとるとぼうけるというのはそういうような事でもないだろうかという風にまあ思うほどでございましたが。今朝方から御夢を頂きました。それは、何か素晴らしい汽車か何かに乗っておって、途中下車をして、そこで降りて、下のほうの何かその、見物に皆で下に下りたんですけれども、もう、汽車のその、もうやんがて時間と言うころに、大きなあの家が火事になっておるのを見て、そこで手間取って少し時間が遅れました。
それでもうその時にはもう皆じゃなくて、私一人でしたがさっさとこう汽車が待っておるところへこう、山あり野原ありで、登って参りましたら、もうやんがて間近だと思う頃に、上から母が降りてくるのです。それから母の妹が久留米におります。もう亡くなる、二人共亡くなっておるのですけれども、まあこんな時に、何で母が降りてくるじゃろうかと、それこそ、足が悪いのに、ぼとぼとしよるなら、なお遅くなるのにとこう、思うたら母は母であんまり遅くなるもんですから、その親心でこう降りてきよるようです。だから久留米の叔母はなにかこうご詠歌のようなことを唱えながら下のほうへ下っておるのです。そして私が、せっかくあの汽車に乗っておるのに、あの、一喝しまして大きな声でね、何をとぼけたかち私が大きな声を出しましたから、ホッと気が付いたかのように、またここに登ってくるというお知らせでした。その、叔母というのは、御不動様を拝んでいました。色々お知らせを頂くようになっておりましたから、合楽理念に基づく御霊の助かるいうなら、汽車に乗っておったのだけれども、またその、ご詠歌を唱えて下へ下っておるというような感じでしたが、またあの、一緒に上に登ってくるです。それからまた、もう山がこう石の山でもうそれこそ絵に見るようなこう、なんというですか、下から見れば素晴らしいですけれども、超えていかなければならない。こりゃ下を見るとなんじょうとも知れんような深い谷があって、私は大体高いところに登るとは非常に苦手ですけれども、この上ろうと思えばずっとその登るところがあるのです。そのある中にもです、この石に足を掛けたら落ちてしまうというような、その気がつかんで足をかけようとしたら、下から母が登ってきよって、それを抑えてくれているんです。また、あるところに大きなますの木が二本倒れかかったようにして、その、岩山、その山にこう倒れかかりするから、それに伝わって、また向こうの松にうつらんならんと思うて、ちょっとこう足を掛けただけで、もう根元からばったり倒れてしまう。はあおかげ頂いた。そして、もう、汽車に乗るところは間近というところまで行って、そういうまあ難儀、何所というそこを乗り越えて行っておるというようなお夢でした。これはお互い信心というものが、いわゆるその金光教の信心者というものが、皆総生神を目指してという事が言われますけれども、いうならば御神格の最高峰というところ。その山をやはり超えて行かなければ、やはりあの最高峰というか、向こうの汽車には乗れないというまあ感じのお夢でしたがそういう例えば、ところを通らせて頂くという事もです、私はいわゆる自分の周辺にもう問題は無いと分かりきってしまう。あるのは神愛、もうこれ一つに取り組んでいけばね、全てが分かるのであり、和賀心が頂けれるのであり、ね、お徳が頂けれるのであり、ね、しかも生神金光大神を目指していくという事はそういう事である。
ね。片島せんという女の先生で大変なお徳を受けられた方でしたがある時に、もう大きな立派な手洗いの、が、お供えになった。神様にその事をお礼を申し上げながら、あの大きなお手洗いのびつの水が毎日干上がってしまうような沢山な信者氏子をおひき寄せくださいというて、お礼なりお願いをされると、神様からあの水で心を清めたいという氏子が増えていく事を何故願わんかという意味の事を頂かれたという事でございます。今日は皆さんに聞いて頂いておるのもそうです。皆さんが本当に、ね、生神を目指すという信者をおひき寄せ下さいと。と、いわば私自身祈らなければならない。だからお参りなさる皆さんもやはり、目指す所は生神だと。生神の境地。ね。それは一切が神愛と分からせて頂くというそれに徹した生活の上に頂き現していくという事。一つの事を覚えたら後は稽古は入らんと言うことじゃないです。あの、浄瑠璃の呂昇の話じゃないですけれども、野崎の一段が本当に語りこなせたら、後の、浄瑠璃は見やすく出切る。見やすく出切るというだけであてもう、それでよいという事ではない。後の稽古がしよいというのである。私が合楽で言われる成り行きを尊び大切にするとか色々言われますけれども、ね、それはなら、自分の周辺に問題は無い、問題が無くなったらあるものはあり難い神愛のみだとここんところを一つ体得させて頂いたら後の信心は見やすいのである。ね。
それにはね、やはり、ね、いうならば、最高峰の信心という事になりますとその登ったり、下ったりする中にでもです、神様のご守護を受けながら、しかもスリルはありますね。そういう高いところへ登っていく。けれどもその、登っていけれるのです。登っていけれる道があるのです。生神金光大神の道はここにちゃんと、金光大神が示し作っておってくださるのです。それを歩いていく為にもねいうならば成り行きを尊ばせて頂く。そしてその難儀の中に難儀という事はない。神様のお心、御神愛だけしかない。と、分からせて頂くてもう、それいっぺんに絞らせて頂いて、その一遍に絞る為に、日々の信行いわゆる信心の行というものがあるのであり、教えを頂くのであるという事になってこなければならない。雨が降るから風が吹くからね、偉いと思うちゃならん。その辛抱こそと仰るが、合楽ではその雨が降るから、風が吹くからを辛抱どころじゃない。むしろかえってあり難いという境地はまず開かなければならない。開か、そういう時でなからなければ頂けない信心の喜びに触れなければならない。ね。そこから雨やら風やらというものは、ね、難儀な事ではない。神愛と分かってくるときです、ね、私共の生活の上に起きてくる問題、様々な難儀と言うておった思うておった事も皆、それを雨風として頂けて、よりありがたくならせて頂く為の手立て、いうなら、合楽の場合、一つの何か越えた感じが致します。飛んでると申しますね。最近。です。その飛んでおる教えを合楽では頂いておるのですから、そこを一ついよいよ実験実証。ね。そして、自分のものにいよいよ自分のいよいよ血肉にしていかなければならない。そして目指すところはやっぱり、ね、合楽のこれは金光教の信者全部に言われる総生神を目指すと言われるが、ね、まあ合楽の信奉者の場合は、ね、もう、間違いなく、総生神を目指しておる信者であるという風に自覚を持って、日々の信心生活に取り組んで頂きたいと思います。
どうぞ